『哲学と宗教 全史』出口治明著

現代の日本で普通に生活している分には、哲学も宗教も少しも触れなくても生きていける。

ただ、自分の人生のことをより深く考える、

つまり「何のために自分は生きているのか」といったことを考える上で

どちらも必要不可欠なのではないか。

少なくとも私は学生時代そんなことを考えていた。

社会人生活を長く過ごした今となってはどうか。

まあ、必要はないと感じているが、新聞の広告欄でこの本のことが掲載されているのを見て、

社会人になりたての頃の「初心に帰る」気持ちが自分の中にフツフツと湧いてきた。

そこでこの本を読むことにした。

さて、その内容。

宇宙についても人間の脳にしても解明できそうで解明できないことがたくさんあることが

近年の自然科学ではっきりとしてきた。

それはつまり、哲学や宗教の出番がまだあると言うこと。

自然科学は万能ではないと言うことだ。

まず、ソクラテスの「不知の自覚」について。

例えば、象といっても暗闇の中でその鼻を触った人とその耳を触った人では

同じ象でも違った認識になる。つまり誰もが本当の象を知らないまま、

自分は象の姿形を知っていると思っている。それが「不知の自覚」。

このような命題を世の中の人に認識させるために対話を重ねていたのがソクラテスでした。

その弟子、プラトンは光をイデア(ものごとの真実)界の太陽と見立て、

最高のイデア「善なるイデア」の表象としました。

それがあるから、様々なイデアが見えてくるのである。

そして洞窟の中で壁面に向かって縛り付けられている人は自分の影しか見えないが、

それが実体だと認識している。このような過ちを犯しているのが、人間だとする。

さらに彼の弟子であるアリストテレスは経験主義に基づいて、

経験による結果を分析し、理論化することを重視しました。

以上がギリシャ哲学。

一方、中国では一般民衆向けの思想として表が儒家、裏が法家、インテリ向けに道家と言う

棲み分けがされていた。この存在が中国社会に安定をもたらしたのである。

ローマ帝国キリスト教が布教を始めた頃、ローマの支配階級は無神論に近かったよう。

その中でキリスト教は巧みに布教戦術を駆使して信者を増やしていった。

キリスト教の発展と相前後して、インドではヒンドゥー教の勢いに対抗する形で

大衆をターゲットにした大乗仏教が登場した。

仏教の発展の歴史は密教の登場で完成する。

イスラム教には専従者(司祭や僧)がいなくて、六信五行と言う戒律が存在する。

神・天使・啓典・預言者・来世・定命を信じ、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の

5つの行を実践することが求められる。

そして東南アジアが世界で最もイスラム教徒の人口が多い地域になっている。

この他、哲学も現代に至るまでのキーパーソンとその考え方に触れていて、

参考になる本だった。

その上で、最後に、現在の人間社会は構造主義や自然科学、そして脳科学が到達した

人間存在についての真実よりも、昔から主流であった本質的な概念、

平たく言えば日常的な概念を上手に利用して虚構に立脚した上で社会の秩序を

保っている。それが人間の生きる知恵なのだ、と触れている。

どこか人間らしさは科学では捉えきれない部分にあるような気がするのは

皆同じなのかもしれない。